水彩画の歴史をチェック!どんな歴史を刻んできたのか真相に深掘り!

さんは、水彩画がいつどのようにして描かれ、現代の日本に広まってきたと思いますか?

「水彩画は、水と絵の具(顔料)を使っている作品ですよね。だったら、昔から日本でも描かれているんじゃないの。」と思われるかもしれませんね。その通り、私はそう思っています。

「そうすると大和絵や絵巻物、屏風絵、浮世絵、水墨画などなど、全部水彩画の仲間ですよね。」となりますよね。その通り、私もそう思うんですが…。

外国から水彩絵の具というものが伝わると、それ以前の日本の伝統的な様式の彩色画と水墨画は日本画という分類になってしまうんですね…。なんか納得し難いですが、外国でもテンペラ画のように顔料と水と卵やカゼインなどの乳化剤を混ぜた絵画は、水彩画とは違う分類なんだって。

テンペラ画といえば、ボッティチェルリのプリマべーらやダ・ヴィンチの最後の晩餐。これらも水彩画の分類だったらすごかったんだけどなあ。まあ今回は、いつに水彩画の起源があり、どうやって水彩画が現代の我々にまで広まり愛されるようになったのか、その流れを深掘りしてみたいと思います。

Contents

水彩画の歴史シリーズ第1話『水彩画の起源を模索せよ!』

水彩画の技法を勉強しすぐに制作に取り組もうとしているあなたにこそ、ぜひ少しだけでも水彩画の起源を考えて欲しいと思います。歴史を紐解くと言うと、少しマニアックな記事になってしまいそうです。しかし、私たちが命を繋ぐのと同様に、水彩画にも古代より綿々と繋がるDNAがあるはずです。

私は、1500年頃に描かれたアルブレヒト・デューラーの「小うさぎ(Young Hare)」や「野生植物画(Great Piece of Turf)」(もはやボタニカルアートの神様!)が、世界初の水彩画だと信じていました。しかし、考えてみればいきなり水彩画が出現するには違和感があります。

今回の記事は調査中でもあり、不正確さがあるかもしれませんが、できるだけ多くの書籍なども研究しましたので、皆さんの勉強の一助になればと思います。

旧石器時代に水彩画…が?

ネットの中での声を拾っていくと、水彩画の起源は旧石器時代ヨーロッパの洞窟画にまでさかのぼるようなのです。本当かなあ…。しかし、いろいろ調べてもどの壁画が水彩で描かれているのか私には分かりません。32,000年前ショーヴェの壁画なのか、20,000年前ラスコーの壁画なのか…。

マルトラビエソ洞窟

現生人類が欧州に現れたのは約45,000年前

それよりはるか昔、65,000年前ネアンデルタール人(約3万年~4万年前に絶滅)が描いた手形や幾何学模様、赤い丸などが、スペインのラ・パシエガ洞窟、マルトラビエソ洞窟、アルタレス洞窟の壁面で発見されました。それぞれの洞窟は、最大700キロ離れていると言うのに同じようなものが…。

当時欧州にいた唯一の人類、ホモサピエンスに近いネアンデルタール人が描いた壁画、今のところ見つかっているのは、抽象的なもののみのようです。

マルトラビエソ洞窟の手形は、赤い顔料が吹き付けてあるようです。現代のマスキング技法とスパッタリング技法がミックスした描画技法を編み出しているとは、まさに驚愕の一言であります。果たして、これは水彩画に認定できるのか…?

ラスコー洞窟

一方、フランスのラスコーの洞窟壁画は、20,000年前の後期旧石器時代のクロマニョン人によって描かれました。洞窟の側面と天井面に、数百の馬・ヤギ・羊・野牛・鹿・カモシカ・人間・幾何学模様の彩画、刻線画、そしてこれまた顔料を吹き付けて刻印した人間の手形が、なんと500点も見つかっているようです。ここでも、吹き付けの技法が…。

彼らは、黒・褐色・赤・黄の顔料を作るために、赤土・木炭を獣脂・樹液・を溶かして混ぜていました。血ですよ。驚きです。さらに、苔をおそらくスポンジがわりにし、動物の毛、木の枝をブラシがわりに、または指を使いながら壁画を塗って描いていたと考えられているようです。壁面の炭酸カルシウム形成が、壁画の保存効果を高めたため、偶然にも天然のフレスコ画のようになって、長期保存が叶ったようです。顔料と血、これは水彩画認定にはならないのでしょうかね…。私も若い頃、絵の中に鼻血を混ぜたような記憶が…。

気になる日本の古墳壁画

竹原古墳 福岡県宮若市

本にも装飾古墳と呼ばれる古墳が多数存在しています。これらの装飾古墳は、6世紀を中心とした5世紀~7世紀前半に描かれています。モチーフは、抽象的な内容が多く描かれていました。通常の壁面には、漆喰は用いられていませんでした。

キトラ古墳 玄武

奈良県にある高松塚古墳・キトラ古墳は、やや遅れて7世紀末~8世紀初頭に描かれたものです。

比較的写実的な内容が多く、キトラ古墳では四神が日本で唯一四体全て描かれています。四神の下に、頭は動物で体は人の姿をした十二支の動物たちが描かれていますが、現在6体のみ(子、丑、寅、午、戌、亥)が確認されています。すごいと思われるのが、天井に描かれた世界最古の科学的な天文図です。赤道や黄道が円で示され、東には金箔で太陽、西には銀箔で月が表されています。また350ほどの星々も金箔で描かれています。かなり高度の技術で描かれています。本当にすごいと思わざるを得ません。

高松塚古墳飛鳥美人

高松塚古墳7世紀末~8世紀初頭ごろに築造され、極彩色の壁画が描かれました。顔料の材料は、「赤は朱、赤褐色はベンガラ、淡紅色は朱と白色顔料の混合物、黄色は黄土、緑色は岩緑青、青色は岩群青、黒色は墨、その他、金箔、銀箔」などが使われました。

私は、これらの日本の古墳も日本の水彩画の起源と考えて良いのではないかなぁと思うのですが…、学者さんはどう思っていますかなあ。

エジプトにも水彩画は、あったの?

死者の書の一部

水彩画らしきものは、エジプトにもあったのでしょうか? この問いを深掘りしましょう。

エジプトの美術は全般にわたって、死後の世界に関わるものが多く見られます。

エジプト地方では、紀元前3000年頃パピルスが発明されました。新王国時代(紀元前1567~525年)の副葬品として有名な『死者の書』は、パピルスの巻子(かんす)で多数発見されています。巻子は製本されていない状態のものです。最長30mくらいの巻物も作られています。
エジプト絵画は独特なスタイルなので皆さんもお分かりと思いますが、顔と両足は横向きなのに、体は正面を向いています。徐々に横向きの体も見られますが、これは、約2500年もの長い間、ほぼ同じスタイルで描かれ続けてきたといいます。なかなか味がありますね。

では、ここで台紙になったパピルスについて触れてみます。パピルスの原料は、ナイル河流域に茂っているカヤツリグサ科の水草です。この草の茎の芯を薄く剥いでつなぎ、潰して腐らせ乾燥させる、と言った作り方のようでした。木炭と樹脂で作られたインクの文字が消えやすかったり虫害に弱かったり、原材料がエジプト特産といった短所がありました。しかし、粘土板に比べれば軽いし、繋げられるし、巻くこともできるなどの利点があり、製紙術が中国から伝播するまで、西アジア、北アフリカ、ヨーロッパの広い地域で長く使い続けられたと言うことです。パピルスって「paper」の語源だったっけ?

ピラミッド壁画の一部

ピラミッド墳墓の壁画は、漆喰を下地として塗ってから描くのが一般的でした。漆喰が出てきましたね。

壁画に使う顔料の素材は、鉱物性の粉末です。これを玉にして大事に保存し、使うときに砕きました。その粉を、少量のゴムを混ぜた水に溶かして絵を描きました。絵に使う主な色は、オーカー系の赤・黄・褐色で、青・緑系は酸化銅から作り、黒は煤から作ったようです。

どの時代、どの地域の祖先たちも、自ら顔料を作り出し描いています。現代の私たちは本当に楽しているなあと思います。私たちも見習うべきところがあるかもしれませんね。

【 雑学タイム 〜漆喰ってなんだろう?

これまでによく出てきた素材に、「漆喰(しっくい)」があります。皆さんは、漆喰とは何か分かっていたでしょうか?

「漆喰」は、「石灰」の唐音(とうおん)がなまった当て字です。(せっかい)→(しっくい)。日本での現在の作り方は、「石灰(消石灰、貝灰)」+「灰汁や海藻(ふのり・つのまた)などの膠着剤(こうちゃくざい)」+「糸くず(繊維質)や粘土」などを混ぜて練り合わせて作ります。昔も似た感じで作られたようで、本当にすごいと思います。

今から5千年前、エジプトのピラミッドの壁に使われたのが漆喰の起源です。この技術がエジプトから世界各地にに広まっていったのか、はたまたエジプト人がヨーロッパの洞窟壁画を見る機会に触れ、壁の素材を知ったのか、そのあたりは謎です。いずれにせよ、この技術はやがてヨーロッパのルネサンス期にフレスコ画(生乾きの漆喰の上に描く絵画技法)として、システィーナ礼拝堂やバチカン宮殿にその作品が残されていきます。私の尊敬するミケランジョロの「最後の審判」は圧巻ですね~!! さらにレオナルドの「最後の晩餐」も。

ミケランジェロ 「最後の審判」

日本へは、シルクロード、中国を経て飛鳥時代、奈良の高松塚古墳やキトラ古墳などに到達するわけです。日本での漆喰といえば、漆喰の優れた防火性と耐久性を生かして建築された「姫路城」別名「白鷲城」が白色の芸術品ではないでしょうか。室内外問わず、優れた素材だと思います。

白鷺城

中世ヨーロッパ、アラビアゴムとの出会い

彩飾写本部分

中世ヨーロッパ(476~1453年)彩飾写本に描かれた挿絵は水彩の技法と言っていいのかな?

彩飾写本といえば、豪華な装丁の直筆本。内容は、「ミサ典書」「聖務日課」が中心でした。ゴシック期に一般信徒対象に「詩書(詩篇・交唱聖歌・聖者の連祷・暦)」「時祷書(祈祷文・讃歌・月歴図など自由な構成)」が作られました。

文字は神の言葉。この威光を表現するために文字の装飾からこだわり、挿絵はついには細密画になっていきました。

写本製作場所は、キリスト教の修道院が中心拠点でした。修道院内の写本製作室(または写字屋)で修道士が聖務または修業の一環として製作しました。写本製作に携わる修道士は、収穫期以外仕事免除だったようです。それほど重要な聖務でした。ただ、中世後期には、写字を職業とする外部の人たちの組織に任せていく修道院もあったそうです。製本された書物は、修道院か司教座聖堂付属学校内図書館に収蔵され、修道士の読書に使われました。

彩飾写本の作り方

作り方は、パーチメント(羊の皮)やヴェラム(子牛の皮)をはいで、皮を薄く伸ばして加工して紙にすることから始まります。1頭の羊から取れる羊皮紙は約6枚。「メエエエエ~、死にたくないよ~。」これだけでも材料費が高価で、手間のかかる作業だと分かりますね。ちなみに、羊皮紙を薄く伸ばすときは羊皮紙屋に注文し、見開きサイズにカットしてもらったりしました。獣皮の脂肪分を抜いたので、現代ではどの獣の皮なのかを分析できないようです。その後は、筆写職人が文字を写して書いていきました。間違いが許されない緻密な仕事です。「あ、間違った!」となると、ゴシゴシ削る人や打ち消し線でズルする人などさまざまでした。そして、筆写が終わると…。

次は、いよいよ挿絵の出番。水彩の技法が見られるでしょうか?

最初は金箔張り(ギルディング)を施します。そのために下地塗りをします。この下地をジェッソと言います。なんかアクリル画みたいですね。ジェッソ作りも手が込んでます。「鉛白、石膏、魚かウサギのニカワ、砂糖か蜂蜜、赤土(アルメニアンボーロ)」を混合します。金箔を貼るところに羽ペンでジェッソをたっぷり塗り3日間乾燥させます。乾燥後は、メノウ(瑪瑙)石を削って軸につけた筆状のメノウ棒で磨きます。

次に、金箔を貼る場所にあたたかい息を心を込めてハアハアと吹きかけます。理由は、ジェッソのニカワを湿らせることで、金箔と下地をくっつきやすくさせるためです。そして、そっと金箔を貼りつけます。上から金箔を布でそっと押さえ、しっかり貼り付けます。余談ですが、金箔貼りは、はっきり言ってとても難しいです!下手な人はシワを作ったり、鼻息で違うところに吹き飛ばして破いたりするのです。すっごい散らかります。正直言うと、それは私が自分の絵に金箔を貼ろうとした時の間抜けな姿です。ははは…。

金箔が貼りついたら、押さえていた布をとって筆で余分な金箔を剥がします。ジェッソの上に貼り付いた金箔をメノウ棒で磨けば素晴らしい光沢が出てきます。

仕上げは、彩色です。「お、彩色だぞ!どれどれ、どうするの?」 彩色は、岩や金属の顔料作りと、動植物の染料作りから始めます。なんでも手作りです。

顔料を羊皮紙に固着させるためには、卵白を用います。ん?水彩と違うかな?

卵白を泡立ててメレンゲ状にし、一晩置きます。泡がなくなった卵白に顔料を溶きます。そして、彩色をします。なんかこれって、テンペラ画ですね。

彩色後の製本も含め、この一連の手間は現代の数百万円に値したようです。よほどの富裕層でないと持てない価値ある一冊ですね。どうでしょう皆さん、この彩飾写本はテンペラ画みたいですが、水彩画と言えるでしょうかね…?

※ アラビアゴムは、インクの中に使われていたよ ※

中世のインクの製法はいくつかありました。一つはろうそくの煤(すす)またはぶどうの若枝を燃やして得られるに、ゴムのりを加える方法。

もう一つは、樫の木に昆虫が作る虫こぶの中身を、ワイン雨水に浸して柔らかくし、緑礬(りょくばん/淡緑色の鉱物)を混合して、最後にアラビアゴムを加え、陽光にさらして濃度を調整する方法など。 アラビアゴムは、彩色には使われなかったのかな?またしても謎です…。

水彩画の歴史シリーズ第2話『芸術としての水彩画』

さて、いよいよ「芸術の手段」としての水彩画の歴史がスタートする時代の到来です。作品が「鑑賞的価値を創出する人間の活動およびその所産」となっていくわけです。

その時代は、ルネサンス期(14世紀中頃~16世紀中頃)から始まっていきます。水彩画は、15世紀後半にイタリアで普及した油彩画の陰にあるイメージはありますが、なになに頑張っていきますぞ~!そして、その筆頭を飾るのは、ドイツの画家アルブレヒト・デューラーです。ではシリーズ第2話の始まり始まり~!

アルブレヒト・デューラー(1471~1528年)

デューラー 「小うさぎ」1502年

彼は、植物、動物、風景を描いた優れた水彩画を描き、水彩画の最初期の代表的作家です。銅版画も油彩画もめちゃくちゃうますぎる超天才!!デューラー最高!

透明水彩技法ガッシュ(不透明水彩)を組み合わせた画法で描いた『子うさぎ』は、警戒し今にも飛び跳ねるような後ろ足のモッコリ、怪訝そうな目つきがなんとも可愛らしい。よく、この一瞬を捕まえて描けたなあと感心するしかないです。数秒で描き切れるわけもなく、

カメラアイの持ち主かな~!?もしくは、剥製にしたとか…。

水彩画の芸術的スタートと気合を入れてみましたが、水彩って、しばらくは油彩画の下書きスケッチや模写といった練習用に描かれる下積み生活が続きそうです。

イギリスで水彩画黄金時代の幕開け、きっかけはグリセリンの発見???

イギリスでグリセリンが発見! グリセリンと言うと皆さんはどんなことを思い浮かべますか?私は便秘薬としての浣腸がパッと浮かぶんですね。そしたら何と、このグリセリンは水彩画の発展と深い関係があるんです。びっくりだと思いませんか?ええ…え!?浣腸と水彩画?なんじゃそれ~!!

では説明しましょう。このグリセリンは、バロック時代後の1760年代に始まったイギリスの産業革命で発見されます。グリセリンは、絵の具に適当な湿り気を保たせ、絵の具の伸びをよくすると同時に、絵の具が固まっても吸水性が強く水に溶けやすいと言う性質があります。このグリセリンと顔料、アラビアゴムを練って絵の具にすることに成功し、ついに水溶性絵の具が商品化されることに至るのでした。

1790年代に登場したイギリスの絵の具メーカーが水彩画の発展に寄与します。メーカーは、小売りの絵の具屋として「水彩絵の具と水彩画技法書」をセットで販売しました。この時の水彩絵の具は小さな皿に固められたり半固形品だったりしました。このセット販売により、イギリスをはじめとするヨーロッパ全土に、アマチュア画家が我も我もと出現するに至ったのです。

本場イギリスでは、水彩画が上流貴族の女性の教養の1つとなりました。なんともうらやましい。私の住んでいる町では、ピアノとかクラシックバレーを習ってる子はいるかな…。水彩画を学ぶ子どもはちょっと見かけないな~涙。

また、水彩画発展の要因には、地形の記録がありました。その他にも、建築物を立てるときの設計図作成にも用いられました。

日本では、地形記録といえば、高橋由一(本業は油彩画家)が数多くの水彩画を描きましたね。これは、山形県令の三島通庸の指示で、栃木・福島・山形三県の道路・建設新事業の全実景を写生し、石版画に記録する事業でした。全行程1,300kmの150〜160図を約4ヶ月で貫徹した写生旅行でした。徒歩、人力車、小舟を使って。公用車なんてありませんからね。平均して考えれば、13km歩いて1〜2枚描くの繰り返し。下絵を東京の息子源吉に送って石版画(現存する冊子名「三県道路完成記念帖」)にさせて手彩色を加える。とてつもない写生旅行をしたものです。お伴をした役人の伊藤十郎平(60歳)も大変でしたね。お疲れ様でした。

高橋由一(57歳)が三島県令に送った手紙の一部の言葉が…「一目シテ驚愕セサルナクーノ新世界二在ルカト疑ハシムルニ到ル実未曾有ノ絶勝卜奉存候」(一目見て驚愕し、新世界にいるかと疑うほど、今までにない絶景である)でした。興奮する気持ちが伝わりますね。

日本には、本当に心が癒される風景が随所にあることがわかります。イギリスであれば、廃墟となった古城が風流かなあ…。

また、この頃は、未開拓地の植民地化が起こった時代でもあり、その随行者として探検隊に水彩画家が同行し、この時の発見を記録したと言うのもありました。今さらのぼやきですが、植民地とか、略奪するような行動は腹が立ちます。現代生活でも色々な政治的陰謀を感じますが、それはさておき、話を進めましょう。

イギリス水彩の父 ポール・サンドビー(1731~1809年)

サンドビー 「ウインザー城」

黄金時代幕開けのトップバッターは、サンドビーですね。彼が「イギリス水彩の父」と言われるのはなぜでしょうか…?「母」と言う人はいるのかな??

「父」と言う理由はいろいろあるかもしれませんが、私は彼が常に水彩画を描き続け、イギリスの風景をイギリス人自身に美しいと感じさせることができた画家であったからだと思います。

サンドビー少年は、14歳で陸軍の地図部門に雇われました。彼は、スコットランドのハイランド地方にあるジョージ砦への新しい補給路を調査する旅に参加し、製図係を務めました。その時も、彼は、スコットランドの風景や出来事を水彩で描いていました。やはり、幼少期から時間のあるかぎり、水彩画に打ち込んでるんですね。

彼は、軍をやめた20歳の頃も、兄の仕事の助手をするかたわら、王室狩猟場近くの城や街などの風景をスケッチしていました。とにかく、どこでもスケッチです。

37歳で王立陸軍士官学校の絵の教師に任じられ、ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツ創立者28人の一人となりました。仕事は68歳まで続けながら、イギリス各地を旅し、風景を描き発表し続けました。こうした活動を通し水彩画を普及させる努力をしたことで、油彩画と同等レベルに水彩画の立場を持ち上げたことが「イギリス水彩の父」と言われる所以かなと思います。

水彩でダンテの神曲を描いたウィリアム・ブレイク(1757~1827年)

ブレイク 「恋人たちの旋風「地獄編」第5部の挿絵」

私の好きな画家紹介です。フランス・ベルギーの象徴主義の画家に影響を与えたのではないかと思うのだけど…。そこは謎です。

ブレイクはロンドンの靴下商人の子供でした。生前は世にほとんど知られず、貧困生活を送った人生なんです…。彼は、銅版画や挿絵画家として生計を立てました。初期は、政治的な出版物に挿絵を描き、やがて自分で詩を書き、詩集に挿絵を描いて出版しました。どちらかというと、知名度は詩人だったようです。よって、生前は無名画家というわけです。

そんな彼は、神話的人物が登場する「予言書」(「四人のゾア」「ミルトン」「エルサレム」などの作品群)からの影響を受け、独自の象徴的な神話のイメージを作り上げました。まさにブレイク流が沸々と湧き上がってきたのです!これが「幻視者」の異名を持つ所以ですね。

晩年には、ミルトンの宗教詩やダンテの「神曲」に傾倒し、絵本の出版に打ち込みました。最期は、病床にありながら約100枚に登る「神曲」の挿絵を水彩で描きました。この頃は、エッチング版画に水彩で彩色という方法ではなく、厚紙に油絵で下書きし、それを水彩紙に写して水彩絵の具で仕上げる手法を取ったようです。最後まで、水彩画を愛した偉人だと私は思います。シュールな画風が個性的で本当に良い絵だなあ~。

ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー(1775~1851年)

ターナー 「ブルーリギ:ルツェルン湖〜日の出」1842作

ターナーは私の名前と同じクロード・ロラン」を生涯尊敬したイギリス・ロマン主義の画家です。彼は床屋の子供で、小さい頃描いた絵をお父さんがお店にかけてよく自慢したそうです。良い親父だ~!褒められた子供はよく伸びますからね。

ターナーの作風は、「大気、光、雲の劇的な表現」が魅力的と言われます。彼は、油彩画制作の傍ら、ヨーロッパ各地を旅行し多数の風景スケッチを制作した画家です。20歳代で画家の地位を確立し、「イギリス風景画の天才」という名を欲しいままにしました。作品は爆売れで、たくさんの注文が殺到したと言われてます。なんとも羨ましい才能だなあ!

ターナーは、本来水彩専門の画家として、画業をスタートさせました。今日の水彩画家が用いているテクニックで、ターナーが用いなかったものはないといわれるほど、水彩画の技術の発展に尽くしています。数をこなし、精神と技能の向上に格闘出来る、それだから天才なんですね。

多彩なスイスの天才 パウル・クレー(1879~1940年)

クレー 「秋風のディアナ」1934

「秋風のディアナ」は、水彩画の技法に革新をもたらした画家クレーが、テクスチャーつくりを楽しんでいる作品です。クレーは、水彩紙に薄布や様々な素材を張り付けたり、さらに油絵の具やチョークで下地を作ったり、そのほかにも型紙の上からスプレーで絵の具を吹きつけるなど、斬新な工夫にチャレンジしました。

クレーの生い立ちと画業を調べると、まずはスイスで生まれたドイツ人音楽一家の子供でした。彼は11歳でベルン・オーケストラのバイオリニストにもなるほどの腕前を持っていた音楽の天才でしたが、十代半ばで画家になることを決意し、ミュンヘンの美術学校で学びました。

35歳の時、北アフリカのチュニスに旅行したことがきっかけで色彩に目覚め、それまでの作品が一変しました。「芸術は見えないものを見えるようにする」と言う彼の作風は、色彩と抽象への挑戦のように思われます。

56歳で膠原病を発症し、創作にかげりが出ましたが、死の前年には1200作の作品を作り60歳で亡くなりました。私は彼に「メルヘン水彩画の父」と名付けたいですね。

そのほかにも著名な水彩画家はたくさんいますが、そろそろ我祖国日本に話を移していこうと思います。

水彩画の歴史シリーズ第3話『水彩画、日本上陸』

「水彩絵の具」が日本に輸入されるのは1887(明治20)年。その2年後には、日本国内でも水彩絵の具が製造されるようになります。さすが日本人、器用ですね。しかし、輸入される前は、どのようにして「水彩画」が日本に伝わってきたのでしょうね…?

では、「水彩画」が日本に上陸してきた、その辺りから探ってみましょう。

画家・漫画家チャールズ・ワーグマン(1831~1890年)の来日

ワーグマン 「東禅寺事件イラスト」

文久1年(1861年)チャールズ・ワーグマンがロンドンニュースの記者兼報道画家・漫画家として長崎に来日しました。彼は日本最初の漫画雑誌『ジャパン・パンチ』を創刊しました。

私が知る彼に起きた最大の事件は、「東禅寺事件」ですね。

日本に来て早々、大変と言うかなんと言うか…。イギリス公使オールコック御一行様が長崎から江戸へ向かう際、ワーグマンはお伴していました。尊皇攘夷派の水戸脱藩浪人らは陸路をとったこの一行に「神州日本がけがされた!」と、高輪東禅寺内のイギリス公使館に着いたのを見計らい襲撃したのです!機転をきかしてワーグマンは縁の下に避難。報道記者魂に火がついたワーグマンは、隠れながら事件の一部始終を記録し、この記事とスケッチをイギリスに送り特ダネをものにしました。斬り殺されなくてよかった…。

彼は、取材スケッチを現地で行い、原稿をロンドンに送る他、スケッチを再び描き起こして2次スケッチしたものに水彩を施していたようです。

ワーグマンの名が知れ渡り、五姓田(ごせだ)義松、高橋由一ら日本画家が弟子入りを希望しました。彼は熱意にほだされ、渋々洋画(水彩画少々)を指南したようです。このワーグマンが、日本洋画、日本水彩画、日本風刺漫画の起源だと私には思われます。30年間、お疲れ様でした。

風景画教師アントニオ・フォンタネージ(1818~1882年)

明治9年、日本初の公立の洋風美術学校工部美術学校(1876~1883年)が開設されました。そこで、イタリア人画家フォンタネージ(1878年帰国)にお雇い外国人としての声がかかりました。彼は、画学教師として、西洋絵画を体系的に教授しました。その時、油彩画を学ぶための重要な課程として、水彩画が教授されました。

画学生には、浅井忠、五姓田義松、小山正太郎、松岡壽、山本芳翠らがいましたが、主に彼らは油彩画の方に学びの重点を置いていたようです。

水彩画の歴史シリーズ第4話『明治時代と画家たち』

美味しそうな「ケーキ」と言う名前。実は、明治時代に絵の具を固めて乾燥させた固形タイプの水彩絵の具のことでした。良い香りがしそうですね~。

明治26年(1893年)に、このサラ入りの絵の具は図画教育の描画剤として使うことをに決定!!by 文部省。

明治30年(1897年)、チューブ入りの絵の具が輸入され始めました。使い勝手が良く、明治30年代後半には、水彩がブームが起こりました。絵の具の容器が大きな進歩を遂げた時代です。

水彩画で日本人を魅了したイギリス人たち

ヴァーレィ 「ハーレフ城」

ジョン・ヴァーレィ・ジュニア。 アルフレッド・イースト。 アルフレッド・パーソンズ。 彼らの繊細で、詩情豊かな水彩画は、日本人を虜にしましたね~。作品の展覧会だけでなく、講演会を開いて若い日本人の水彩画家たちに多大な影響を与えました。彼らの来日は、日本のアマチュアを含む水彩画黄金時代の導火線に火をつけたのでした!

アルフレッド・ウィリアム・パーソンズ。彼らは講演をしたり、作品を展覧するなどして、日本の若い画家たちを大いに刺激しました。それらが一つの切っ掛けとなって、日本には画家も素人も含めた水彩画ブームが巻き起こります。

サー・アルフレッド・エドワード・イースト(1844~1913年)

イースト 「雨後の傘ほし」

アルフレッド・イーストは、ターナーを心から信奉する画家でした。画廊「The Fine Art Society」の支配人に依頼されて、1890年の6か月間、日本に滞在して風景画や日本の人々を描きました。わずか6ヶ月で日本人の心を掴む水彩画の力、見事なり~!

アルフレッド・ウィリアム・パーソンズ(1847~1920年)

パーソンズ 「エレン・ウィルモットの庭園」

アルフレッド・ウィリアム・パーソンズは、イギリスの伝統的な植物画や庭園画、風景画、挿絵など様々な作品を描いていました。植物画家としては、園芸家エレン・ウィルモットの著書「The Genus Rosa」の図版を描いたり、挿絵画家としては、ウィリアム・ロビンソンの著書「The Wild Garden(1870)」に挿絵を描いたりしています。また、風景画家としても数々の作品を残しています。彼は、1892(明治25)年に日本を訪れ、早春から晩秋まで滞在し、長崎から関西などを旅し水彩画を描きました。

彼ら来日したイギリス人の水彩画を見た日本の人々は「水彩画は油彩画の習作ではないのだ!油彩画と同等の芸術的価値が水彩画にもある!」と気持ちのたかぶりを感じるのでした。

水彩画の発展に身を捧げた二人の男たち

水彩画は、明治30年前後より40年代にかけて、文学ルネサンスの影響も受け、学生達の心を強く掴むのでした。私が思う、その水彩画愛の先頭とも言うべき人物は…。

『みずゑ』の創刊者、大下籐次郎の活躍

大下藤次郎 「紫陽花」1904年

大下藤次郎は、旅を続け42歳で夭折するまで、その土地土地の風景を情緒豊かに描き残した画家です。その他にも、日本初の水彩画指導書「水彩画乃栞」(1902(明治35)年)を書き、多くの水彩画愛好家に売れまくりました!! さらにさらに、水彩画の専門誌「みずゑ」(1905(明治38)年)を創刊し、水彩画研究所を開設(1906年)するなど、水彩画の普及発展に大貢献した人物で~す!!

明治35年の第1回太平洋画会展(明治34年に解散した明治美術会の後身、大下は会務委員)での水彩画の出品作が、油彩画と半々に並ぶほど、水彩画ブームは爆上がりしていました。もちろん、水彩の著書や絵はがきも人気があり、飛ぶように売れたようです。

大下の活動は、このように多くの素人画家が誕生した「水彩画の時代」を築いた第一人者と言えるでしょう。

しかしながら…写実的な水彩画に対する評価は徐々に軽視されるようになっていきました。なんでそうなるの~? 絵を描く安易さにかまけて、精神の鍛錬と技能習得をサボったのではないのか…。

三宅克己、ヴァーレィ・ジュニアの作品に衝撃!

三宅克己 「伊太利ヴェロナの古橋」

また、当時大下と同様、生涯水彩画に身を投じる青年がいました。青年の名は、三宅克己(かつみではありません。こっきです。)(1874(明治7)~1954(昭和29)年)。彼は、1891(明治24)年、来日したイギリス人水彩画家ジョン・ヴァーレィ・ジュニア(ヴァーレィの孫)の作品に接して稲妻が走ります。

「これを見た私は、忽然(こつぜん)自分の進むべき世界の入り口が目前に開かれたように思った。」と。

さらにパーソンズの作品にも影響を受け「私の水彩画熱は、いっそうその度を高めた。」と言い残しました。

1897年、23歳で渡米し、一時イェール大学付属美術学校に学びました。翌年には、さらに研究を深めようと1年間ヨーロッパ各地での写生旅行へ旅立ちます。その後も、海外へたびたび出かけ、風景を描き続けました。20歳代後半から、渡米滞在中の作品を白馬会に出品。その後も、1912年の光風会結成に参加したり、帝展、新文展など当時の最高の舞台で活躍しました。

彼もまた、生涯をかけ、透明水彩による光の微妙な表現を追求した日本水彩画界(かつ徳島県民)の誇りですね。

水彩画の歴史シリーズ第5話『大正時代(1912~1926年)~戦前と画家たち』

硫黄島 戦場跡

この頃の、激動の時代背景を少し見てみましょう。

大正時代の幕開けは、1914(大正3)年の第一次世界大戦勃発と言えるのでは…。人類最初の世界大戦です。主戦場は、ヨーロッパ。日本は1902年に日英同盟を結んでいたために参戦。戦場は…、

ヨーロッパ中心だったため、日本からは軍需品の輸出が増えました。第一次世界大戦特需です。日本経済は好況に沸きました。特に、造船、製鉄、繊維分野は格別の発展を遂げました。

1918(大正7)年、第一次世界大戦終了した以降も、ヨーロッパの復興需要で日本の貿易は拡大しました。しかし、ヨーロッパの生産が回復すると、日本からの輸出が落ちはじめます。悪いことは連鎖します。株価も暴落して景気が悪化、物が売れず、事業拡大した企業は借金返済に苦しみました。「1920(大正9)年恐慌」です。「水彩画はいつ描くの?」と言ってる場合ではない状況かもしれない…。が、若き芸術家はそんなに緩くはないのですじゃ。

1923(大正12)年に関東大震災が起こり、日本経済は泥沼状態へと…。

1927(昭和2)年、「昭和金融恐慌」が起きます。国の緊縮財政で物価の下落、関東大震災で発生した不良債権などで国民に金融不安が広がり、銀行への「預金の取り付け騒ぎ」が起きました。国内では、貧困の深刻化、農村の娘は工場労働者や芸妓として身売りさせられるなどの状況でした。 まさにパニック・ジャパン!です。この不満が、満州事変勃発とも繋がってます。

1929(昭和4)年、ニューヨークでの株価大暴落で世界恐慌へと。日本は国内取引に力を入れ国内の農業、工業を発展させ、この国難を乗り切る努力をします。

1930(昭和5)年代に入ると徐々に繊維貿易や重工業産業が回復しだします。

1931(昭和6)年、満州事変が起きます。経緯はややこしいので割愛しますが、日本は世界の避難を浴び孤立します。

1932(昭和7)年、満州国建国に消極的との理由で犬養毅首相が海軍軍人と右翼に暗殺5・15事件暴力による自由な政治活動の統制が始まります。

1933(昭和8)年、日本は、満州国不承認をきっかけに、国際連盟を脱退します。国際的に孤立するようになって行きました。

1941(昭和16)年、太平洋戦争に突入!

この不安定な時代のあおりを受け、圧倒的に油彩画の勢力が増し、前衛的な美術運動が活発化していきました。それに反し、水彩画はロマン的であり、自然を美しく描くのが主流であっただけに、時代の変革の中で探求すべき人間の精神性や芸術的表現に挑戦する風潮が薄かったと思われます。

こうして、大下藤次郎を明治44年に失った水彩画壇は、急激に色褪せていくのです。が、反骨精神は、必ずや芽生えるのだ!

「東京三脚会」「蒼原会」「日本水彩画会」

「若き同志たちよ、我らで水絵の時代を復活させようぞ~!「東京三脚会」の結成じゃあ~!」とおそらく吠えたのではと私は思うのですが、1922(大正11)年に、日本水彩画会仮研究所の仲間であった東大医学部学生の小山良修24歳、東京美術学校1年生の中西利雄22歳、銀行員の富田通雄21歳、このトリオが油彩画に優る水彩画の本質追究を目指して「東京三脚会」を結成しました。

大正13年に「蒼原会」と改名し、写生会や人体研究会、展覧会など、実践交流を行う研究会としての存在感を示しました。前年の関東大震災にも負けない熱意を感じます。

1930(昭和5)年頃から、地方支部が設けられたり、各地で水彩画の講習会を開催したりと、美術教育普及に貢献する活動が全国に浸透しました。

しかし、地道な努力を続けるも、戦後昭和23年に中西利雄が48歳で亡くなると、勢いは衰え、日本水彩画会に吸収される運命を辿っていくのでした。

水彩画の歴史シリーズ第6話『若き自分と水彩画の思い出』

戦前までの水彩画の流れを調べ、すでに私の頭はパンク寸前です。戦後は、美術団体乱立の様相もあり、説明困難と見て割愛します。代わりに、私の思い出を少しだけ綴ります。

若い頃の私は、愛の裏にある人間の醜悪な裏の顔を追求していました。それは、自分への愛の渇望だったと思います。振られては飲んで、荒れて騒いで、切ない苦しい思いを画面にぶちまける。今思えば実に情けのない弱い自分だったな。満たされない自分の欲望をキャンバスに記録するような制作に浸っていました。(この頃は主に、油彩画を勉強中だった。)

私は、四つ切りのスケッチブックに「ナルシスト」と言う題名の水彩画を描きました。水に映る腐敗した自我像でした。水中でドクロになっている自分を見つめ愛しい気持ちに浸っているちょっとイケメンの自我像。私のお気に入り作品です。5000円で額装し大事にしていました。(自像でもいいんだけど、自像の方が心象絵画的で自分的には納得。)

あるとき、山形市七日町のフリーマーケットに参加し、売上金をユニセフや赤十字などに寄付しようと思いました。黒曜石にフクロウを描いたペーパーウェイトや、卵の殻に地球を描いた置物、トイレットペーパーの芯に彩色して作った鉛筆たて。そして、売るつもりもなく飾りで並べた「ナルシスト」。価格は、額装と同額の5000円で出品しました。

すると、言い方は失礼ですが、いかにも根暗そうな女性がやって来ました。私の絵の前にしゃがみ込んで、じーっと眺めていました。「ナルシスト」を。一度退席してまたやってきました。しばらく眺めた後「これください。」と指をさされたのでした。

心臓がドキン!としました。初めて作品が売れる!喜んだ刹那「私、3000円しか持っていないんです。」 (心の声「…え?値札の表示は5000円ですよ…。」)

私は心の中で「欲しいと言う人がいるなんて予想外だ〜。買って欲しいなあ、売りたい…、けど、額装に5000円かけて作品自体の価格は0円の作品。売ったら額装代だけでも2000円の赤字だぞ。」迷いに迷って、結論「額装代だけでも5000円しているので、3000円では売れません。」と断りました。この販売は寄付金を集めるボランティアの企画なんだ。売ったとしても、自分が全部寄付金を背負うことになるんだ。売らずに飾るだけにしておこう。

諦めて去った女性の後ろ姿は寂しく見えました。私のこのグロテスクとも言える作品に興味を示した貴重な人間を、私は失ったのです。当然他の人に売れる気配はありませんでした。

しばらくして、またあの女性が現れました。再び、作品の前に居座りじーっと眺めていました。 な〜んか緊張するなあ…。 数十分眺めた後「売ってください。」と。「私、本当に3000円しかないんです。全財産なんです。明日から納豆だけ食べていきます。お米だけにして生きていきます。どうしても欲しいんで、3000円で売ってください。」

(心の声「うわ〜、なんだこれ、いきなり感情をぶつけてきた〜!!!!! 押し売りでなく、押し買いだよ、これは〜〜〜!!!!!」)最後は圧に押されて3000円で販売することに…。赤字だった。でも、良い人助けになった。爽快感も少なからずあった。「ナルシスト」、きっと大事にしてもらえる。すごく嬉しい…。私にとっては、初めて水彩画が売れた思い出です。

ちなみに、私が水彩画を真面目に研究し出したのは、50歳代からです。今は、事故で障害者になってしまいましたが、描くことは続けます。皆さんも、いつから始めても大丈夫。一緒に頑張りましょう。

【まとめ】

【ロン】マキノロラン作-2023

今回の記事「水彩画の歴史をチェック!どんな歴史を刻んできたのか、真相に深掘り!」は、いかがだったでしょうか?! 長々と付き合ってくださり、ありがとうございました。

水彩画に限らずですが、絵画の歴史を深掘りすることは、とても楽しく興味が湧きます。

原始時代のラスコーやアルタミラの洞窟壁画は、誰も彼も適当に描いたものではないようです。呪術を目的とした職業的な多くの芸術家がいたと言われています。彼らが描くバイソン(野牛)が、なぜこんなにも多くの人々の目を惹きつけるのでしょうか?

どの時代の絵画もそうですが、単に技巧を凝らしてうまく描かれていても、決して良い「絵画」とは評価されてこなかったと思えます。

技術も重要ですが、その生き生きとした精神性が見る人に伝わって来なければ、良い「絵画」とは言えないのだなと思う今日この頃です。

このHPでは、水彩画を中心に、絵に興味のある人の疑問(材料や道具の選び方や使い方、水彩画の技法など)に答える内容を紹介します。その他にも、アクリル画や油彩画、漫画、イラスト、切り絵、デッサンなど、美術全般の指導書としてもやさしくていねいに学べるHPです。ぜひ別の記事でも楽しく学んでいただければと思います。

2件のコメント

水彩画の歴史についての記述に熱量を感じました。そして、私は紙に描く水彩画はしばらく制作していないので、描きたくなりました。精神性が観る人に伝わる絵を描きたいものです。今は庭の草木や花に心惹かれるので、先ずは身近なものをよく観察することが作品作りに結びつきそうです。

コメントいただきありがとう。君の水彩画で確かラ・フランスだったか見た記憶(間違ってたらごめん)があるんだけど、すごく心にのこる美しさだった。ぜひ描いて見せて欲しいな。

roran1962 へ返信する コメントをキャンセル

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です