自己紹介 profile

2018年 アクリルと水彩 新たなる生命への道 内藤秀因記念第21回水彩画公募展出品 大賞受賞 
2018年制作/アクリルと水彩/S50号

こんにちは! 
絵描きのマキノロラン(牧野呂蘭・絽蘭)です。

これからお話しするのは、
障害を負ってしまった私が過去にどんな人生を歩み、
これからどう復活していくかというお話しです。

私は2024年1月に脊髄損傷で全身麻痺となりました。

4つの病院(山形大学医学部附属病院→秋田大学医学部附属病院→秋田労災病院→みゆき会病院)を転院しながら、
多くの方々にお世話いただき、
治療とリハビリを重ねました。

皆さま、本当にありがとうございます。

現在は、体の麻痺は残ってますが、
起きて生活ができるまでになりました。

自宅で週1回の訪問リハビリを受けながら、
画家としての自立を目指し日々HP制作を通して
「絵(主に水彩画)の描き方」などを発信しています。

私は35年間、美術科の教員をしながら、
その傍らグループ展や町おこし壁画活動などのボランティア活動をしてきました。

そんなエピソードを含め、
ここでは美術に関わることを中心に、自己紹介をしたいと思います。

私の生い立ち・愛すべき私の家族

1962年、山形県山形市で生まれる。
妻と娘二人、猫1匹の「四人・一匹」家族。家族の中心は猫。

愛すべき猫君は、
私が8ヶ月の入院生活を経て自宅に戻ると、
もはや私の存在を無視するかのように、
私に取って代わって家主と化していた。

無念…。まあ、女子会の中心にいて幸せに過ごしてくれたまえ。

娘たちは漫画家のプロを目指し、
私の若い頃とは比べものにならない程に真面目に作画しているようだ。

はっきり言って、私より絵が上手い…(悔しさと喜びの涙)。

私の小学校からの夢は、
世界一の「漫画家か寿司屋になる!」である。

思えば、友達遊びより、
一人で絵を描いている方が好きな子供だった。

漫画は、手塚治虫作品が大好き。

川崎のぼる作品は「荒野の少年イサム」が好きだった。
それで、よく模写をした。

未熟な高校時代・愚か者な大学時代

高校時代は、
なぜかフェンシング部と美術部の二つに所属。

この頃描いたキューピーと自画像が気に入っているが、自画像は消失してしまった。

牧野呂蘭の高校時代の油彩画作品「キューピー」印象派的な色使いを模索している。
高校時代の油彩画「キューピー」

私は貧乏性で、
絵の具をちびちび使ってレオナルド・ダ・ヴィンチのような絵を目指していた。

デッサンは、細部にこだわって全体を見ず、
顧問のエイザン先生から
「お前の絵は、アマゾンに浮かぶイカダのような描き方だな。」
と褒められた…?と記憶している。

あれ…?便所の踏み板だったっけかな…?

写実からシュールへ、落選の衝撃

山形大学教育学部中学校課程美術科に一浪で入学し、
写実が大好きだったはずの私は、
諸々の理由から絵がシュールに走った。

そして、「写実しか入選しない!」と
我々の間で噂の「山形県美術展」に、
愛しのシュール作品(自信作)を初出品。
が、が、が、シュールな私の絵は、

当たり前のように落選。
「あああ、我が命、一刀両断される…。
落ちると分かっていても、
落ちてしまうとやっぱり心は、地獄…。

この失意が写実を嫌悪する決定的な瞬間となった。

「売り絵(この頃の私の中では写実画)なんか描けるか!!」

この愛しき絵は、
教員になってから教え子に欲しいと言われたので、あげた。
大事にしてくれるという言葉を信じて。

80号の怪奇なシュール(我が魂の分身)
自宅に飾ってくれるって、すごいことだ。

教員時代の過酷な「ボランティア活動」

独身だったからできた教員の仕事と両立させた校外活動。

アクティブな先輩M M氏に誘われて行った
「壁画活動」「駄菓子屋楽校」「寺子屋楽校」などがある。

進取の気性を持つと評価された「壁画活動」

山辺町の商店街のシャッターに描かれた、地域の伝説をモチーフにした壁画
山形県山辺町の商店街で取り組んだシャッター壁画。
地域の伝説をモチーフに、町おこしの一環として制作しました。

「壁画活動」の拠点となったのは、
山形県東村山郡山辺町の商店街でした。

町おこしの一環として、
商店のシャッターに絵を描いていく活動です。

始まりは、「石川材木」さんのシャッター
絵を描かせていただいたことでした。

私たちは単にシャッターを美しく飾るだけではなく、
山辺町に伝わる昔話や伝説を壁画として描き、
さらにその図柄をニットセーターへ展開する
ことを試みました。

壁に描かれた絵を、
人が身につけて町の中を歩く。

いわば、「動く絵画」として地域の物語を広げていく試みです。

当時の私は、
この壁画とニットを組み合わせた活動は、
日本でもかなり珍しい取り組みだったのではないかと考えています。

この頃は、風土装景集団「蒼」として活動していました。

この地域活動プロジェクトは、
The Rolex Awards for Enterprise 1993 の Honourable Mention(佳作)に選ばれました。

1992年10月28日付のThe Rolex Awards for Enterprise 1993 Honourable Mention受賞決定通知書
1992年10月28日付、ロレックス本社から届いた受賞決定通知。個人情報保護のため、宛名・住所の一部を伏せています。

評価されたのは、
壁画そのものだけではありません。

町の伝説を壁画にし、
さらにニットへ展開し、
美術を地域の暮らしの中へ広げていこうとした発想そのものが、
一つの新しい地域文化活動として認められたのだと思います。

当時確認した資料では、
それ以前にも日本から Honourable Mention の受賞者がおり、

1978年 第1回 藤井洋
「アフガニスタンの蒸発した村人たち―20世紀の謎」

1987年 第4回 向後元彦
「アラビア半島沿岸でのマングローブ林の再生」

1990年 第5回 中島正一
「支援船なしのウィンドサーフィンによる太平洋横断」

などの活動が選ばれていました。

私たちの地域美術活動も、
その Honourable Mention の一つとして評価されたことになります。

しかし、華やかな受賞の裏側にあった制作現場は、
決して華やかなものではありませんでした。

壁画を描くのは、
教員としてまとまった時間を確保できる
お盆や年末年始が中心でした。

冬は雪との戦い。
夏は直射日光との戦い。
夜は睡魔との戦いです。

集まってくれたのは、
私の呼びかけに共感してくれた山形県内の美術科教師をはじめ、
山辺町の高校生、山形大学美術科の後輩たち、
そしてさまざまな立場の地域の方々でした。

とはいえ、参加者一人ひとりの画力や得意分野を
事前に十分把握できていたわけではありません。

そのため、現場での役割分担は毎回難題でした。

筆を任せる人、
広い面を塗る人、
下描きを担当する人、
ペンキを調合する人。

原画のイメージを崩さないために、
その場で一人ひとりの仕事を判断しながら進めていきました。

中でも大変だったのが、
平日の夜間に行うシャッター壁画です。

仕事を終えてから、
遠方から2時間近くかけて駆けつけてくれる先生や大学生もいました。

疲労と眠気の中で描き続け、
夜が明ければ、そのまま仕事へ向かう。

ある先生などは、
ほとんど眠らずに勤務へ向かわれたこともあり、

「今日の授業中、大丈夫だろうか」

と本気で心配したほどです。

ロレックス賞の表彰式には、
代表として私たちが東京へ行きました。

けれども、
この活動を支えた本当の力は、
現場で絵の具まみれになりながら力を貸してくれた
多くの仲間たちのものでした。

今振り返っても、
あの活動は私一人では決して成し得なかったものです。

関わってくれたすべての方々に、
今も感謝しています。

山辺駅構内横断歩道橋の西側面に描かれた壁画
山辺駅構内横断歩道橋の西側面に描いた壁画。
当時の地域美術活動の一つとして制作しました。

「駄菓子屋楽校(だがしや楽校)」「寺子屋楽校」の思い出

「駄菓子屋楽校」「寺子屋楽校」は、
先輩MM氏から
「美術の教師なら、その力を社会に出てボランティアとして生かさなければならない。
美術の力が通用するか試すべきだな。(しかも廃材を使うことを条件に)」
みたいなセリフを投げかけられたことがきっかけとなって始めることになった。

「寺子屋楽校」は、
中学校の授業で活用できるか教材研究を試行錯誤して行なった。

廃材は無視して「七宝焼」などを企画すると、
子供よりお母さん方が喜んで集まってくれた。

もちろん子供たちも、
銅板に盛り付けた粉(釉薬/ゆうやく)が
一瞬で輝く宝石に変わる瞬間を見られるので、
大いに喜んでくれた。

「駄菓子屋楽校(だがしや楽校)」は、
山形市の「みなみ公園」に「はじめや」と言う駄菓子屋があり、
その駄菓子を買う値段相当の教材で
創造性を培う工作を行う有料の屋台を公園で出す企画だった。

今は全国的な展開を見せているようだが、
そのスタートは苦難の道であった。

私が一番最初に屋台を開いた時は、
先輩MM氏による廃物使用条件の足かせがキツかったが、
卵の殻を使用し、
蝋燭作りや地理の統計を盛り込んだ地球儀を描いた置物作りなどを行った。

そのほか、トイレットペーパーの芯にゴッホが使用した絵の具の色で彩色し「ペン立て」を作るなどをしていた。

その頃は、ほぼ誰一人の参加もなく、
MM氏の教え子の中学生が一人遊びにきてくれるような状態だった。
あと、確か幼稚園児が一人…。

宣伝ができてなく、
さらに真冬の公園で屋台を開いていた頃は
誰も来ないのはやっぱり当たり前だったと思うが、
MM氏の教え子のMT君に
「ロラン先生、寒いのでこれ飲んでください。」
と、缶コーヒーをもらった感激は生涯忘れられない。

その後の開催では、
MT君は理科実験教室を開いてくれた。

やがて、先輩MM氏の働きかけで、
けん玉ができるおじいちゃんなどが参加し、
子供遊び伝承の交流の場となった。
少しずつ子供の数が増えてきた。

その後、
東北芸術工科大学の先生が協力者となって大学生が参加し、
小学生が大量に参加し出した。

懐かしく、楽しく、
そして教員と絵画制作と駄菓子屋楽校との両立が辛いと言う複雑な日々だった。

教員の仕事と並行して息絶え絶えに続けている創作活動

現在は多少良くなっているとは言うものの、
教員(私は中学校)の仕事はかなり大変である。

地域差があるかもしれないが、
私が勤務した学校の勤務時間は、
概ね夕方5時頃までだった。

が、部活動は午後6時、
もしくは延長で午後7時まで活動していた。
もちろん時間外手当はなしのボランティアである。

教材研究や振り返りプリントの点検、
もしくは行事の企画書作り、
クラスたより作成などは午後7時以降の仕事として待ち構えているので、
帰宅は午後9時〜10時など、結構あった。

それでも、独身の時は頑張れた。
が、さらに美術作品の創作時間となると…。

何とか間に合わせでやっていた出品作品

私には、大学卒業後から、
毎年継続して出品しているグループ展がある。

元々自分と友人で立ち上げた展覧会なので、
気楽に試行錯誤した作品(油彩、水彩、ミクストメディア、水墨、陶芸、ドールハウス、写真等々)を見てもらえる。

現在は「創夢展」という名で、
後輩たちが運営してくれている。

毎年8月東北芸術工科大学の東側の丘にある
「悠創の丘ギャラリー」
音楽家演奏の「アフロディーテ・コンサート」とコラボ開催中。

なんだかんだで30年以上は続いている。

創夢展会場の一室(素人からプロまで気軽に参加)

しかし、私の今までを振り返ると、
作品はまだまだ突き詰めるところがあった。

突き詰めるために必要な
「基礎的な勉強」が本当にできていなかったなあ…
と未だに反省させられる。

「大学まで行って何してたの?」
と問われそうだが、
若気の至りで「井の中の蛙、大海を知らず」だったのだ。

東京まで電車で行き、
上野を中心に銀座の画廊も含め、
年に3〜4回くらいは足を運んでいた。

が、いつも「なんか大した作品がないな。」
「これくらいなら描けるな。」と思っていた。

見事なまでの阿呆ぶりである。

今更ながらだが、
自分の下手くそさに気づけない「阿呆の極み」である。
(が、東京からの帰り、
上野発の夜行列車に乗って、
出稼ぎのおじさんと酒を交わして新聞を敷いて床に寝たこともあったが、
そういう交流はすごく楽しかった。)

心打たれた1枚、徐々に惹かれる画家業への憧れ

2000年、東京に行った時の話。

ラファエル前派展が開かれていた。
世紀末の象徴主義的な絵画に波長が合う私にとって、
この展覧会は神に導かれたとも言っても過言ではない。

「水と妖精」がテーマで展示された空間で私は出会った。

アーサー・ハッカー1892年の作、
「シュリンクス」。
私は足が止まって動けなくなった。時が止まった。

アーサー・ハッカーの1892年の油彩画作品「シュリンクス」。

「この絵に出会うために自分は生まれてきたんだ。」 私はそう直感した。

同時に、
「私の絵の前で、誰かが足を止めて、
その人の人生に勇気を与えられるような絵を描きたい。」
そう言う思いが沸々と湧き上がった。

「ああ、画家として独立できたら、どんなに幸福か…。」

入賞履歴とその思い

グループ展を続けていた私にとって、
公募展出品という考えは存在しなかった。

そんな私に、
東京での公募展に応募を誘ってきた友人がいる。
彼の名は、故てらさきそういち君。

井の中の蛙か、日本画壇で通用するか、腕試し。
彼に誘われて、初の東京進出だった!

東京出品入賞履歴

2000年 第60回美術文化展(東京都美術館) 初出品・初入選「死生界の狭間」
2001年 第61回美術文化展(東京都美術館) 入選(一般)
2002年 第62回美術文化展(東京都美術館) 佳作「死界の渦」/会友推挙
2005年 第65回美術文化展(東京都美術館) 新人努力賞「真実の眼」/準会員推挙
2010年 第70回美術文化展(東京都美術館) 入選(準会員)
2013年 第73回美術文化展(東京都美術館) 入選(準会員)
2015年 第75回美術文化展(東京都美術館) 入選(会員推挙)当時の経済的理由により退会

2019年 第95回白日会展(国立新美術館) 一般佳作賞 「黎明の予感」

2020年 第96回白日会展(国立新美術館) 入選(コロナ禍のため一般公開なし)

2020年 梅津五郎芸術賞第3回全国絵画公募展(白鷹町文化交流センターあゆーむ) 優秀賞(2位)

地元入賞履歴

地元出身の水彩画家あべとしゆきさんの絵画に感動し、
彼が大賞を受賞した内藤秀因記念水彩画公募展内藤秀因水彩画記念館)・(庄内町文化創造館響ホール)へ出品を決意。

2015年 内藤秀因記念第18回水彩画公募展 教育委員会賞
この作品は、母の死と応募時期が重なり、
通夜室で仕上げを行なった。
母への思慕を込めた作品だった。

水面の波紋や枝、落ち葉とメダカを描いた水彩画「波紋の中で遊ぶメダカの家族」
2015年制作/水彩/F50号。水面に映り込む空や枝、落ち葉とともに、波紋の中を泳ぐメダカの世界を描いた作品。

2016年 内藤秀因記念第19回水彩画公募展 庄内町長賞

枯れたヒマワリと自然の風景を描いた水彩画「真理流転」
2016年制作/水彩/F50号。枯れたヒマワリを中心に、移ろいゆく生命と自然の循環を描いた作品。

2018年 内藤秀因記念第21回水彩画公募展 大賞 水彩画に目覚める!

東北現代美術協会「北展」(山形美術館) 奨励賞2回 
その後会員となり事務局などを務めるが、
脊髄損傷で体が不自由となり2024年に退会する。

画家を目指す割には売れそうもない大作を描いたのには訳があって、
そういう作品は美術館や外国の大富豪に購入してほしいと期待していた。

が、世の中そう甘くない。

特に大きな絵というものは、
必要としてくださる方がいないと、
側から見れば「自己満足の粗大ゴミ」にしか存在価値がないのかもしれないのだ。
涙涙ですなあ…。

これまでの画歴|個展・グループ展・美術活動

学生時代に油彩を始めて以来、二人展やグループ展、公募展への出品だけでなく、壁画制作や地域での美術活動にも取り組んできました。
ここでは、これまでの主な展覧会活動と画歴を年代順にまとめています。

1981年/昭和56年
山形大学教育学部美術科で遠藤賢太郎先生に師事

1983年/昭和58年
牧野絽蘭・伊藤聡二人展(山形市民会館)

1984年/昭和59年
牧野絽蘭・伊藤聡二人展Ⅱ(山形県民会館)

1985年/昭和60年
山形大学を卒業後、聴講生として学びを続ける。山形県上山市のモダンアート画家・清野克己氏に師事。

1986年/昭和61年
雪国五人展(銀座夢土画廊/清野克己氏と)。清野氏に同行して上京。清野氏のご友人の村井正成氏の勲四等受章パーティーに参加する。

1987年/昭和62年
25歳で中学校教諭となる。ここで、前任の美術教師(のちの水彩画家あべとしゆき氏)と引き継ぐ。

1988年/昭和63年
新人七人展…寺崎聡一、伊藤聡、牧野絽蘭、山口良之、横山和宏、東海林孝夫、福澤達也(アズ七日町/8月11日〜15日)

1988年8月に山形市のアズ七日町にて開催された牧野絽蘭を含む若手七人による展覧会のパンフレット
この後、山形市を中心に活躍する作家を育てた「新鋭展〜山形アンデパンダン展〜創夢展」と続く展覧会を創設する若手の中心的作家たち

1989年/平成元年

1990年/平成2年
2月:第1回新鋭展出品(山形美術館/代表/15日〜18日)

1991年/平成3年
2月:第2回新鋭展出品(山形美術館/7日〜11日)・クラシックの夕べコンサート
8月:第3回新鋭展出品(酒田市総合文化センター/14日〜16日)
2月:総合芸術誌「フィリア創刊号」投稿(発行人:寺崎)
8月:総合芸術誌「フィリア第2号」投稿(発行人:寺崎)
9月:第1回アフロディーテコンサート(山形中央公民館)

1992年/平成4年
2月:第4回新鋭展出品(山形美術館/6日〜11日)・第2回アフロディーテコンサート
8月:第5回新鋭展出品(長井市民文化会館/7日〜9日)・第3回アフロディーテコンサート
2月:総合芸術誌「フィリア第3号」投稿(発行人:寺崎)
8月:総合芸術誌「フィリア第4号」投稿(発行人:寺崎、編集人:今田)

1993年/平成5年
牧野絽蘭・富谷信広二人展(東北電力山形支店ロビーギャラリー)
第6回 The Rolex Awards for Enterprise 1993 Honourable Mention(佳作)受賞。「壁画とニットの連携による新しい生活環境の創造」が評価される。
※1992年10月28日、ロレックス本社より受賞決定通知。

2月:第6回新鋭展出品(山形美術館/4日〜7日)・第4回アフロディーテコンサート
2月:総合芸術誌「フィリア第5号」未投稿(発行人:寺崎、編集人:今田)
8月:第7回新鋭展出品(新庄市民プラザ/5日〜8日)・第5回アフロディーテコンサート

1994年/平成6年
2月:第8回新鋭展出品(山形美術館)・第6回アフロディーテコンサート
2月:総合芸術誌「フィリア第6号」投稿(発行人:寺崎、編集人:今田)

1995年/平成7年
9月:総合芸術誌「フィリア第7号」投稿(発行人:寺崎、編集人:今田・伊藤)

1996年/平成8年
4月:寺子屋『野生芸術楽校』開催(以後3年間継続)。
左沢線寒河江駅壁画プロジェクトを企画するが実現せず。
山形ガスのガスタンク彩色計画案を提案するが採用に至らず。
長井南中学校に転勤し、入学式・卒業式などで舞台装飾に生徒と共に精を出す。
8月:総合芸術誌「フィリア第8号」投稿(発行人:寺崎、編集人:今田・伊藤)

1998年/平成10年
8月:第1回山形アンデパンダン展(山形市悠創館)
新鋭展の名称を改め、再出発。
この頃から駄菓子屋楽校を始める。

1999年/平成11年
8月:第2回山形アンデパンダン展「死生界の狭間」出品(山形県文翔館)
総合芸術誌「フィリア第9号」投稿(発行人:寺崎、編集人:伊藤)

2000年/平成12年
4月:第60回美術文化協会展「死生界の狭間」初出品/初入選(東京都美術館)
6月:A to Z展「死生界の狭間」出品(宮城県リアスアーク美術館)。安国寺に寄贈。
8月:第3回山形アンデパンダン展

2001年/平成13年
4月:第61回美術文化協会展入選(東京都美術館)
8月:第4回山形アンデパンダン展
山形市の老舗店舗による『しにせの会』のカレンダーを、浮世絵のパロディーとして制作。

2002年/平成14年
4月:結婚。
4月:第62回美術文化協会展「死界の渦」出品/佳作賞・会友推挙。
大阪市立美術館での巡回展『ホモサピエンス展』に展示。
8月:第5回山形アンデパンダン展出品

2003年/平成15年
8月:第6回山形アンデパンダン展「真実の眼」「彷徨」出品

2003年8月5日付山形新聞に掲載された第6回山形アンデパンダン展の記事
2003年8月5日付山形新聞。教師や地域の作家が参加した第6回アンデパンダン展。
私自身も作品を出品し、継続してきた地域での美術活動の一つです。

2003年/平成15年
WORK3000展「阿修羅」出品(銀座青樺画廊)

2004年/平成16年
8月:第7回山形アンデパンダン展「レンチャン絵日記」「裸婦習作」出品

2005年/平成17年
4月:第65回美術文化協会展「真実の眼」出品/新人努力賞・準会員推挙(東京都美術館)
7月:世界平和最優秀作家賞受賞(雑誌『芸術界』読者投票)
8月:第8回山形アンデパンダン展「生命誕生・火の鳥」「真実の眼」出品

2006年/平成18年
8月:第9回山形アンデパンダン展「阿修羅降臨」出品
教員活動では、いじめ撲滅運動を推進させ、市長褒賞をいただく。

2007年/平成19年
4月:第67回美術文化協会展「風神雷神輪廻転生図」出品(東京都美術館)
8月:第10回山形アンデパンダン展

2008年/平成20年 「アイマンダラ」制作
8月:第11回山形アンデパンダン展

2009年/平成21年 「ベニマンダラ」「シュリンクス」制作
8月:第12回山形アンデパンダン展

2010年/平成22年
8月:第13回山形アンデパンダン展

2011年/平成23年
8月:第14回山形アンデパンダン展(山形市悠創館)

2012年/平成24年
8月:第1回創夢展(山形市悠創館)

2013年/平成25年
5月:第73回美術文化協会展「大地鎮魂の画」「切り絵獅子吼観音」出品(東京都美術館)
8月:第2回創夢展/特集展示(山形市悠創館 8月8日〜11日)
総合芸術誌「フィリア第10号」(こうたりけい)追悼号発行(発行人:寺崎、編集人:牧野)
季刊誌『やまがた街角』の連載『県内美術の新鋭たち』(都仁間氏執筆)で特集される。

2014年/平成26年
8月:第3回創夢展「SAD ANGEL」「犬」「くりかえすもの」(山形市悠創館)
11月:第59回東北現代美術協会公募展『北展』(山形美術館)
祖父・牧野柿五郎の遺品整理中、祖父や清野克己氏らが創立に関わった「北展」の記録を発見。自分も出品してみようという思いが突如湧き、初出品を決意した。
《イノチ〜轟然の刻〜》奨励賞・会友推挙
《イノチ〜融合の刻〜》入選

荒れ狂う海と大きく巻き上がる波を描き、画面を走る赤い梵字を重ねて生命の力を表現したF80号の油彩画
《イノチ〜轟然の刻〜》2014年、油彩・キャンバス、F80号。
激しくうねる波と赤い梵字を通して、自然の圧倒的な力と、
その中から立ち現れる生命のエネルギーを描いた北展奨励賞受賞作。

2015年/平成27年
5月:第75回美術文化協会展 旧作2点を加筆・修正して出品/会員推挙退会
6月:第63回東北現代美術協会会員会友展『北展』「妙見さんと12宮」出品(山形美術館)
8月:第4回創夢展(山形市悠創館)
10月:第60回東北現代美術協会公募展『北展』「魂たちよ、永遠に生きよ」出品/奨励賞・会員推挙(山形美術館)
11月:内藤秀因記念第18回水彩画公募展「波紋の中で遊ぶメダカの家族」出品/教育委員会賞(庄内町文化創造館)
生徒作品の公募展指導に力を入れ、年間41点の受賞につながる。

2016年/平成28年
6月:第64回東北現代美術協会会員会友展『北展』「守られしもの」「妖しの森」出品(山形美術館)
8月:第5回創夢展(山形市悠創館)
8月:総合芸術誌「フィリア第11号」発行(発行人:寺崎、編集人:牧野)
10月:内藤秀因記念第19回水彩画公募展出品「真理流転」/庄内町長賞(庄内町文化創造館)
11月:第61回東北現代美術協会公募展『北展』「天界の木漏れ日」「冥界入口町化石通り一丁目」出品(山形美術館)
11月:個展「水彩+デッサン+イラスト+まちづくり提案」(荘内銀行七日町支店ロビーギャラリー)

総合芸術誌フィリアのバックナンバーを並べた写真
継続して制作・発行してきた総合芸術誌『フィリア』。
美術を中心に、さまざまな表現や活動の記録を一冊にまとめてきました。

2017年/平成29年
8月:第6回創夢展(山形市悠創館)
10月:東北現代美術協会 第65回会員会友展 第62回公募展『北展』「ドナ・ノービス・パーチェム」出品(山形美術館)

2018年/平成30年
8月:第7回創夢展(山形市悠創館)
10月:内藤秀因記念第21回水彩画公募展出品「新たなる命への道」出品/大賞(庄内町文化創造館)
11月:東北現代美術協会 第66回会員会友展 第63回公募展『北展』「鎮魂(たましづめ)」「ミネルヴァの梟よ、何を見たか」出品(山形美術館)北展事務局担当

2019年/平成31年
3月:第95回白日会展「黎明の予感」出品/一般佳作賞(国立新美術館)
2019年/令和元年
8月:第8回創夢展(山形市悠創館)
10月:東北現代美術協会 第67回会員会友展 第64回公募展『北展』「悠久の蔵王鴫沼」「慧眼」出品(山形美術館)北展事務局担当

2020年/令和2年
3月:第96回白日会展「天つ日の響き」出品(国立新美術館/一般公開なし)
8月:第9回創夢展(山形市悠創館)
芸術冊子「フィリア第12号」発行
11月:東北現代美術協会『北展』〜希望者による展覧会を開催(山形美術館)
「終息祈願〜六芒仮面」「心象風景〜焦燥と恍惚」出品/事務局担当
コロナ禍で多くの美術展が中止となる中、展覧会活動を途絶えさせたくないという思いから、有志による開催を提案しました。北展本体は中止となりましたが、会の了承を得て「北展」の名称を使用し、希望者による展覧会として実施。私は事務局を担当しました。

2020年11月7日付山形新聞に掲載された東北現代美術協会「北展」会員・会友展の記事
2020年11月7日付山形新聞。
コロナ禍で北展本体が中止となる中、希望者による展覧会として山形美術館で開催。
私は事務局を担当し、展覧会活動の継続に取り組みました。

2021年/令和3年
5月:中央作家作品展『天つ日の響き』出品(山形県芸文美術館/県内の白日会出品者として参加)
8月:山大美術会展「天つ日の響き」出品(山形県芸文美術館 8月2日〜8日)実行委員
8月:第10回創夢展(山形市悠創館)
11月:東北現代美術協会 第68回会員会友展 第65回公募展『北展』出品(山形美術館)北展事務局担当

2022年/令和4年
4月:教職を退職
8月:第11回創夢展「3つの不思議」「天つ日の響き」出品(山形市悠創館)
11月:東北現代美術協会 第69回会員会友展 第66回公募展『北展』「樹界」出品(山形美術館)北展事務局担当
11月:上山市立宮川中学校に週1回勤務の臨時採用

2023年/令和5年
11月:東北現代美術協会 第70回会員会友展 第67回公募展『北展』に「2023私の足跡」出品(山形美術館)北展事務局担当
朝公園で犬の散歩をする方々に声をかけ、犬の絵を葉書に描いてプレゼントを始める。

2024年/令和6年
1月:事故により頸椎を損傷。長期の入院・リハビリ生活に入る。
この年から、創夢展への出品なし。
5月:リハビリを兼ね、小さなスケッチブックに再び絵を描き始める。右手が十分に使えないため、左手を中心に描く練習を開始。
11月:暇だれアートクラブ作品展(須田一成・富谷信広・マキノロラン)に過去作品を複数出品(長井市文化会館)。本人は会場に行けず、展示・運営を二人に託す。

2025年/令和7年
10月:暇だれアートクラブ作品展vol.2に複数作品を出品(山形県文翔館)

2025年10月に山形県郷土館文翔館で開催された暇だれアートクラブ作品展Vol.2の案内チラシ
2025年10月23日〜26日、山形県郷土館「文翔館」で開催した「暇だれアートクラブ作品展 Vol.2」。
事故後も仲間とともに作品発表を続けています。

まとめ

上述の私の人生はいかがでしたか? 

今は、体の都合もあるので、
公募展に出品することもなく、小品を中心に描いています。
(下の絵は怪我をする半年前に葉書に描いた作品です。
飼い主さんにプレゼントしました。

マキノロランがハガキに描いた子犬の水彩画「リーマス」
かわいい子犬のリーマス
マキノロランがハガキに描いた子犬の水彩画「ボス」
かわいい子犬のボス

ぜひみなさんとも交流できたらと思っています。
今の私は、写実も抽象も、漫画もイラストも関係なく、
ヨレヨレしながら取り組んでます。

ということで、このサイトは、
水彩画を中心に絵が好きな人向けに作成しています。

・絵を描くのが好きな人
・絵を鑑賞するのが好きな人
・美術に興味のある人
・美術(水彩画以外も)を学びたい、技術を伸ばしたい人

のような方々に役立ち、
楽しんでもらえるサイトにしたいと思っています。

さらに現在絵の描き方を学べる無料講座を作成中(しばしお待ちください)です。
また、美術に関する個別の悩み相談がある方は是非コメントを送信してくださいね!