私は最初、藤田嗣治の「乳白色の肌」の技法を調べていました。
しかし気づけば、視線は絵そのものではなく、
キャンバスの隅へ引き寄せられていたのです。
そこにあったのは、小さく刻まれた“サイン”でした。
「嗣治」
「T.Fujita」
「Foujita」
「L.Foujita」
なぜ、この画家はここまで執拗に名前を書き換えたのだろうか。
調べれば調べるほど、そこには単なる署名ではない、
“別人になろうともがいた痕跡”
のようなものが浮かび上がってきました。
・女性が変わるたび
・国が変わるたび
・画風が変わるたび
・戦争に翻弄されるたび
サインまでが変貌していくのです。
私は次第に、こう思うようになりました。
藤田嗣治とは、
「絵を描いた人」ではなく、
“人生そのものを作品化してしまった画家”
だったのではないだろうか、と。
Contents
【藤田嗣治の生涯】15歳でサインした「Foujita」の意味

15歳頃の作品に記された
「Foujita」というフランス語表記の署名。
一般的に、15歳で自分の作品に
フランス語のサインを書く少年がどれほどいるでしょうか。
長年、中学校で美術を指導してきた私の人生において、
そのような生徒は未だ見たことがありません。
私が知る限り、それは千人に1人いるかいないかの、
特別なこだわりが感じ取れる異例の表現です。
この署名は大発見だと私は思います。
まだフランスへ渡ってもいない日本の少年が、
なぜフランス語的な綴りを使っていたのか。
しかも、これから先も藤田は、
まるで人格を脱皮するようにサインを変え続けていきます。
私はここに、
単なる署名以上のものを感じました。
それは、
“別人になりたい”
という、画家特有の激しい衝動です。
14歳のパリ万博―少年が「世界」を知った日

「Foujita」を署名した1年前、
1900年、わずか14歳の藤田嗣治は、
パリ万国博覧会へ水彩画を出品し、見事に入賞を果たしています。
まだ中学生です。
この事実を知った時、私はかなり衝撃を受けました。
なぜなら、このとき、
後年の「Foujita」という人格の原点が、
ここにあるように見えたからです。
当時の出品手続きは、父・藤田嗣章が行ったとされています。
つまり藤田は、単なる地方の絵好き少年ではなく、
幼少期から既にフランス文化圏への入口に立っていたのです。
しかも、
世界の舞台で評価まで受けてしまったという事実。
この成功体験は、少年の内面へ、
「自分は世界へ行ける」
という、危険なほど具体的な確信を植え付けたのではないでしょうか。
父が家へ持ち込んだ「フランス」 ―日本で吸っていたパリの空気

藤田の父・嗣章は、
陸軍軍医総監を務めた当時最高峰のエリートであり、
フランス文化への深い理解を持つ人物でした。
西洋趣味の家具や装飾に囲まれた家庭環境のなかで、
少年・嗣治はフランスから輸入された児童雑誌
『La Récréation(ラ・レクレアシオン)』に出会います。

誌面から飛び出してきたのは、
日本の写実教育とは対極にある、自由な線と洒脱な色彩、そして軽やかなデザイン。
それこそは
「絵そのものが遊びと呼吸を持った世界」でした。
この世界に魅了された藤田は、
熱狂的に模写を重ね、ノートをフランス風のイラストで埋め尽くしていきました。
美術学校へ入るより遥か昔に、
彼はすでに本物のフランスの空気を深く吸い込んでいたのです。
後年の藤田の足跡をたどるとき、
西洋への恐れや気後れは微塵も感じられません。
そこに感じられるのは、
「自分は最初からそこへ行くべき人間だった」
という、ある種の異様な確信です。
神田の夜学―日本にいながら、サイン“Foujita”はフランスを目指していた

中学生の藤田は、
学校が終わると神田の夜学へと向かい、フランス語を猛勉強していました。
目的は極めて明確です。
「フランスへ行って絵を学ぶため」
ただそれだけでした。
おそらく、当時の彼にとって、
日本の美術学校への進学など、はじめから選択肢になかったに違いありません。
私はここに、
普通の少年が抱く「夢」とは一線を画す、
ある種の恐るべき執念を見ます。
なぜなら普通は、
国内で地盤を固めようとするものだからです。
しかし藤田は違った。
彼は、日本で認められてから世界へ行こうとしていたのではありません。
最初から、世界しか見ていなかったのです。
その狂おしいほどの地続きの意識が、
あの15歳の「Foujita」という署名へとつながります。
まだ、異国の土を踏んでもいない少年が、
すでに”フランス語の響き”を
自らのアイデンティティーに刻もうとしていました。
あの「Foujita」と言う署名から私が感じるのは、
憧れではなく、そこ知れぬ覚悟そのものです。
黒田清輝の「中の下」評価―日本画壇での息苦しさ

中学卒業の足音が近づく頃、藤田は父に
「すぐにフランスへ行かせてほしい」
と激しく直訴しています。
しかし、父の答えは反対でした。
当時、公的な
後ろ盾のないまま海外へ飛び出す私費留学は、
あまりにも無謀で危険な進路だったからです。
息子の熱意に困り果てた父は、
信頼する直属の上司であり、
美術界の内情にも詳しかった森鴎外へ相談を持ちかけました。
2人に向けた鴎外の助言は、
「日本画壇には様々な事情がある。
まずは東京美術学校を卒業し、
日本側の公的な後ろ盾(国費留学の資格等)を得てから渡欧したほうがいい」
と言うものでした。
これは、単なる教育論ではありません。
日本の国家システムと言う「レール」に乗らなければ、
異国で路頭に迷い、二度と戻れなくなるという、
明治のエリートならではの冷徹な処世術だったのです。
「正当なルートで、世界へ行くならば…」
と言う条件のもと、
父は進学を条件に息子の直訴に折れ、
藤田もまた、その説得を受け入れて東京美術学校へ進学します。
しかし、世界の近い道を遮られたこの選択が、
後々彼をさらなる苦悩へと突き落とすことになるのです。
丸善の洋書 ―東京美術学校より先に知った「本物の西洋」

当時の東京美術学校を支配していたのは、
黒田清輝率いる「外光派」の教えでした。
光に満ちた明るい色彩。
美しい写実。
それが「最新の西洋画」とされていました。
しかし藤田は、アカデミズムの枠の外側で、
すでに世界のリアルタイムを目撃していました。
舞台は日本橋の丸善です。
彼はそこに並ぶフランス直輸入の美術雑誌や画集に没頭しました。
出会ったのは、
セザンヌ。
ゴッホ。
ゴーギャン。
後の美術史を塗り替える「ポスト印象派」の潮流です。

決定的なアドバンテージは、
彼が「フランス語を読めた」と言う事実です。
他の学生たちが、絵の表面を真似ている間に、
藤田は、最先端の芸術理論そのものを
脳内に直接流し込んでいたと言うわけです。
西洋において、何がすでにに古く、何が新しいのか。
それをおそらく日本で唯一、正確に知ってしまった少年。
だからこそ、
学校の授業を受ければ受けるほど、
その教えの「遅れ」に絶望していったのではないでしょうか。
白樺派との激論 ―「景色のコピー職人」への拒絶

藤田の東京美術学校の同級生には、
後に『白樺』の美術運動において
中心的な画家として活動する山脇信徳らがいました。
山脇らは学校の外から、
ロダン、ゴッホ、セザンヌなど、
西洋の新しい芸術思想をいち早く学内へと持ち込んでいました。
山脇が描いた前衛的な絵をめぐっては、
武者小路実篤ら『白樺』の文豪たちが総出で擁護し、
日本の画壇を揺るがす大論争にまで発展しています。
すぐ身近にいる同級生(山脇信徳)が、
時代の最前線で新しい芸術のうねりを起こしている――。
その熱気を肌で感じていた藤田たち学生は、
夜になると夜な夜な集まり、激しい議論を交わしていました。
「これからは目に見える光ではなく、魂を描く時代だ」
「黒田先生の絵はもう古い」

綺麗な景色をきれいに写し取るだけの教育への反発。
それは「景色のコピー職人にはなりたくない」
と言う若者たちの切実な叫びでもありました。
フランス語を操り、
誰よりも早くその本質を理解していた藤田にとって、
この青い熱気に満ちた空間こそが、
唯一本音で呼吸できる場所だったのかもしれません。
私はこの熱気がとてもとても好きです。
これは時代を超えて、
美術学生たちの中で繰り返されている光景なのだと思います。
「黒を使うな」 ―藤田嗣治が日本の洋画と決別した瞬間

「自然界に黒はない。影は青や紫で描け」
ーーそれが、巨頭・黒田清輝が、絶対的な正解として掲げる洋画教育の教条でした。
しかし藤田は、
その押し付けられる「光」の表現に絶望していたのです。
彼の魂が求めていたのは、
真逆の「黒」だったからです。
しかもそれは、西洋油彩特有のドロリとした湿った黒ではなく、
どこか日本の伝統的な「墨」を想起させる、
凛と乾いた漆黒なのです。
1910年の卒業制作『自画像』。
藤田は学校のタブーを破り、
その固有の「黒」を大量に流し込みました。
アカデミーへの挑戦状とも言えるその作品は、
教授陣の逆鱗に触れ、
結果は「中の下」と言う手厳しい美術学校からの拒絶でした。
ですが、この『自画像』を凝視する時、
見えてくるのは、単なる反逆ではありません。
藤田は美術学校と言う日本の狭い枠組みの中で、
既に「西洋の油彩に、東洋の墨を融合させる」
と言う破格の実験を始めていたのです。
後のグラン・マルト(偉大なる画匠)
「Foujita」の代名詞となる「乳白色と墨線」の遺伝子は、
この時すでに埋め込まれていました。
日本では、もうこれ以上呼吸ができない。
26歳の青年・藤田は、
日本ではもう呼吸できないという確信だけを抱え、
1913年、パリへ向かったのです。

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ピカソの部屋での衝撃―1913年、藤田嗣治は一度死んだ

1913年。
26歳の藤田嗣治は、
積年の憧れを胸に、ついにパリの土を踏んだ。
だが運命は容赦がない。
彼は到着のわずか翌日、
のちに世紀の巨匠となる前衛芸術の怪物、
パブロ・ピカソのアトリエへといきなり案内される。
この邂逅のタイミングこそが、
藤田の運命を決定づけました。
彼は決して、
あてもなく異国へ流れ着いた
有象無象の青年画家ではなかった。
14歳での万博、
神田での夜学、
むさぼり読んだフランスの児童雑誌、
丸善の洋書売り場、
そして白樺派との青い激論。
彼は長い歳月をかけて、
この血湧き肉躍る舞台へ這い上がるための武器を、
日本にいながらにして揃え続けていたのです。
だからこそ、残酷だった。
満を持して飛び込んだそのスタートから、
彼は自分が積み上げてきたすべてが通用しない、
芸術の“頂点”という名の絶望へと突き落とされたのですから。
パリ到着の翌日―恐怖と敗北感に体が震えたピカソとの対峙

東京美術学校の時代から日本橋の丸善に日参し、
フランスの最新美術雑誌を貪るように読み漁ってきた藤田。
彼には、自分なりに
「西洋美術の最先端」を知り尽くしている
という確固たる自負があった。
しかし――。
その緻密に積み上げられた知識は、
ピカソのアトリエに足を踏み入れた瞬間、
音を立てて粉々に崩れ去る。
己の無力さと、
これまでの自分の勉強が
すべて無駄だったという事実に、
足元から崩れ落ちるように体が震えた。
視界に飛び込んできたのは、
日本で教え込まれてきた
上品な「西洋画」などでは決してなかった。
それは、
これまでの全美術史を暴力的に解体するような、
全く別の世界の出現であったのです。

キュビスムの破壊と構築―「美しく描く時代」の終わり

そこでは、形は無惨に切断され、
伝統的な遠近法は崩壊し、
現実そのものが暴力的に解体されていました。
司会に飛び込んできたのは、
ノコギリで断ち割られたかのように
バラバラに分解されたバイオリン。
1つの画面の中に、
ありえない数の視点がいびつに押し込められている。
ーーキュビスム。
それは、
“美しく描く”
という概念そのものを根底から破壊する
恐るべき芸術の姿でした。
さらに藤田の目を射抜いたのは、
ピカソが集めていたプリミティブなアフリカ彫刻、
そしてアンリ・ルソーの描く素朴で、奇妙な、不気味な絵画の数々でした。

東京美術学校で叩き込まれた
「正しいデッサン」も、
「綺麗な写実」も、
この空間では、一文の価値も持っていなかったのです。
むしろ、
既存の美を「壊しているもの」こそが
最先端であるという、逆転の現実。
もし私が藤田としてこの場に立っていたら、
それは、新時代の芸術に出会った喜びなどではなく、
未だかつて経験したことのない“文明の恐怖”そのものであったろうと思います。
遠い東洋の島国で、
血を吐くような執念で、積み上げてきた自らの技術が、
たった一日で、一瞬にして“過去の遺物”と化してしまったのです。
その時に、青年・藤田の全身を貫いた絶望は、
我々の想像を遥かに絶するものだったに違いありません。
「一歩から遣り直す」―絵の具箱を叩きつけた衝動

後年、藤田はこの凄絶な衝撃の瞬間を、
自伝『腕一本・巴里の横顔』の中で、次のように振り返っています。
「その日即座に私は自分の絵具箱を地上に叩きつけて、一歩から遣り直さねばならぬと考えた」
私は、この静かな文章の奥に潜む狂気が怖いです。
なぜならここには、
単なる異文化へのカルチャーショックなどではなく、
「自分が命がけで信じてきた芸術の全てが、
一瞬で崩壊した瞬間」
の生々しい痛みが刻まれているからです。
恩賜・黒田清輝から教わった「最新」のはずの技術。
東京美術学校の閉塞感の中で耐え続けた日々。
卒業制作『自画像』へ込めた、自分なりの必死の反抗。
ーーそのすべてが、
本場パリの最前線の前では、
「終わった過去の遺物」
に見えてしまったのです。
繰り返しますが、
ピカソのアトリエを出た藤田は、
「自分の絵具箱を地上へ叩きつけ、一歩から遣り直さねばならぬ」
という激しい衝動に襲われました。
「大変な場所へ来てしまった」
その言葉通り、
藤田はパリの初期において、
自ら積み上げてきた芸術観を一度完全に疑い始めます。

実際には、渡仏直後もしばらくの間、
藤田は日本から持ち込んだ従来の画風で制作を続けていたことが、
妻へ送った手紙などから確認されているのです。
つまり藤田は、
たった一夜で劇的に生まれ変わったわけではありませんでした。
迷い、
苦しみ、
過去の技術を捨て切れず、
何度も行き詰まりながら、
少しずつ“古い自分”を壊していった。
私はむしろ、その事実の方が人間的で、
恐ろしいほどリアルだと思います。
しかし同時に、私はこうも感じます。
後年になって藤田が、
この出来事を
「到着翌日、絵具箱を叩きつけた」
という強烈な神話へと語り直したこと自体、
まさに藤田らしい、と。
なぜなら彼は、
絵だけではなく、
自分自身の人生すら
“作品として演出し続けた画家”
だったからです。
サインを変え、
服装を変え、
人格を変え、
そして人生の物語そのものまで編集していく。
私はここに、
後の「Foujita」という存在の原型を見ます。
このパリでの敗北は、
単なる挫折ではありません。
むしろそれは、
藤田が初めて本気で自らとの戦いを始める瞬間だったのです。
「自分は何を描くべきなのか」を。
西洋の真似からの脱却――「日本人の線」だけが武器になる

さてさてーー。
ここからが、藤田嗣治という男の異常なところです。
彼は、この底知れぬ絶望の淵にあっても、
決して潰れませんでした。
それどころか、
全く逆のエネルギーへと昇華させたのです。
藤田は古いプライドを燃料とし、
新しい自分の内なる可能性に火をつけました。
「西洋の真似事をしている限り、あの怪物(ピカソ)たちには絶対に勝てない」
この冷徹な魔での事実を瞬時に受け入れ、
彼の芸術のベクトルは180度、
狂気的なまでの速度で反転します。
西洋人には逆立ちしても描けないものは何か。
日本人の自分にしか生み出せない美とは何か。
ー―その問いの先で、藤田が掴み始めたのが
「線」
でした。


それは、日本画の面相筆のような、
極限まで細く、張り詰めた線です。
輪郭を曖昧に溶かす西洋絵画とは逆に、
藤田は“線で存在を定義する”東洋の感覚へ回帰していく。
さらに彼は、
余白、
墨の感覚、
紙の白、
静けさ、
そうした日本的感性そのものを、
油彩画の内部へ持ち込もうとし始めます。
私は、ここに藤田のギラつくエネルギーを感じます。
なぜなら藤田は、
西洋へ憧れながら、
「西洋になろう」とする姿勢を感じさせないからです。
むしろ逆です。
彼は、
「日本人のまま、西洋美術の内部へ侵入する」
という危険な道を選び始めています。
これは単なる折衷ではありません。
東洋趣味でもありません。
もっと侵略的です。
“西洋絵画の内部へ、日本の感覚を静かに侵食させていった”
「日本人の線を武器にして行った」
と言うのが正解ではないでしょうか。
そしてその戦略は、
やがてパリの人々を熱狂させることになるのです。
おかっぱ頭。丸眼鏡。猫。墨線。漢字署名。
それらは偶然ではありませんでした。
藤田は少しずつ、
「Foujita」という存在そのものを、
芸術作品として設計し始めていたのです。

もちろん、この時点では、
まだあの「乳白色の肌」は生まれていません。
1913年の藤田は、
極貧の中で、
失敗を繰り返しながら、
必死に自分だけの表現を探し続けていました。
私は思います。
もし彼が、あの日
ピカソのアトリエで打ちのめされていなければ。
もし彼が、
日本で覚えた“正しい洋画”に満足していたなら。
後の「乳白色」も、
世界を震わせた墨線も、
そして怪物「Foujita」も、
決して誕生しなかったのではないか、と。
天才が天才に敗北を認めた日。
それは藤田にとって、
終わりではありませんでした。
むしろそれは、
“日本人の自分にしか描けないもの”
を探すための、
長く痛快で危険な旅の始まりだったのです。
極貧の4年間と覚醒―【藤田嗣治の生涯】が成熟していく日々の軌跡

ピカソのアトリエで、
日本で培った芸術観を一度は粉砕された藤田。
しかし彼は、その壮絶な敗北の直後に、
すぐあの「乳白色の肌」へと辿り着いたのでしょうか。
まさか、芸術の世界はそんなに甘くありません。
むしろそこから始まったのは、
出口の見えない、長く苦しい“暗黒の4年間”でした。
金もない。評価もない。
異国での底知れぬ孤独。
そして、
世界最高峰の怪物たちがひしめく
パリ画壇で突きつけられる、
「東洋人は異物である」
という、見えない文化の壁。
神田の夜学で培った語学力のおかげで、
言葉の不自由こそなかった。
しかしだからこそ、
周囲の自分を見る冷ややかな目や、
西洋美術の圧倒的な歴史の重みが、
人一倍リアルに五感へ突き刺さったはず。
その過酷な泥沼の中で藤田は、
世界と戦うために
「自分はこれから何を描くべきなのか」
を、毎日血を吐くような思いで問い続けていたのです。
ですが、私は思うのです。
この極貧時代こそが、
張り詰めた「さなぎの季節」であったのだと。
暖房も買えない極寒のアトリエで、
凍える手でただひたすらに引き続けた無数の線。
その壮絶な格闘の時間こそが、
やがて世界を熱狂させる「独自の線」となり、
唯一無二の「乳白色」となって
美しく羽化していくための命の蓄えでした。
本セクションでは、
藤田がその孤独な闇のなかで
いかにして才能を研ぎ澄ませ、
世界を震撼させる表現へと開花させていったのか、
その生き抜いた軌跡に迫りたいと思います。
キャンバスを漁る日々―前衛芸術の壁が育んだ藤田の水彩画

1914年、
藤田嗣治の生活は急激に暗転します。
欧州を襲った第一次世界大戦の勃発により、
日本からの仕送りが完全に途絶えてしまったのです。
油絵の具も、新しいキャンバスも、
満足に買うことができません。
藤田は、空腹と容赦のない寒さのなか、
彼は生き延びるためにパリのゴミ捨て場を徘徊しました。
他人が使い古して捨てた汚いキャンバスを拾い集め、
付着した他人の絵の具をナイフで必死に削り落としては、
そこに自らの絵を描きつけました。

では、この極限のなかで、
藤田は一体どんな絵を描いていたのでしょうか。
驚くべきことに、当時の彼はまだ、
あの「乳白色の肌」を描いてはいません。
ピカソの部屋で受けた衝撃を狂ったように消化しようと、
ピカソ風の歪んだ静物画や、
アンリ・ルソーを思わせる奇妙な風景画など、
当時の前衛芸術へ必死に食らいつこうとした痕跡が、
この時期の作品群から見えてきます。
彼は、最初から
「東洋の美へ回帰しよう」
などとは微塵も考えていませんでした。
あくまで西洋の油彩の戦場で、
西洋のルールでピカソを超えようと、
泥臭い試行錯誤を繰り返していたのです。
しかし、
運命は彼をさらに追い詰めます。
パリの凄絶な冬が到来したのです。
暖房の薪(まき)すら買えない極寒のアトリエ。
油絵の具は寒さでいつまでも乾きません。
凍え死ぬ寸前まで追い詰められた藤田は、
ついに狂気的な行動に出ました。
自分が必死に描いた油絵のキャンバスを、
暖を取るために暖炉に投げ込み、
燃やさざるを得なかったとも伝えられています。
絵の具も、布も、自分のプライドも、
すべてが炎の中に消えていく。
この時、藤田は悟りました。
高価で、乾きにくく、
燃えて消えてしまう油彩は、今の自分には武器にならない、と。
そうして行き着いたのが、
暖房を必要とせず、すぐに乾き、
何より安価で購入できる
「紙」と「水彩」、
そして幼い頃から身体に染みついていた
「墨(インク)の線」
です。
私はここに、
藤田芸術の最も残酷な原点を見ました。
あの世界を熱狂させた「Foujitaの繊細な線」は、
高尚な芸術理論から生まれたのではないのです。
第一次世界大戦という時代の濁流と、
凍死寸前の貧困という冷酷な現実によって、
極限まで追い詰められた果てに、
ようやく姿を表した“異様な線”だったのです。

「未来派」への没頭 ―独自のサインへと繋がる表現の引き出し

ここで私たちが知るべきなのは、
1913年から1915年頃の藤田が、
まだ何一つ独自のスタイルを持たない
「未完成の画家」
であったという事実です。
パリの荒波に放り出された彼は、
ピカソのキュビスムやルソーの素朴画に留まらず、
ヨーロッパ最前線の
ありとあらゆる芸術思想を手当たり次第に、
猛烈な飢餓感で吸収しようとしていました。
その泥臭い試行錯誤のなかで、
彼が深くのめり込んだのが、
当時パリを席巻していた
イタリア発の前衛運動「未来派(フューチャリズム)」です。
伝統を否定し、
機械、速度、運動、
そして連続する視点の振動を画面に定着させようとする過激な思想。
1914年頃に描かれた藤田の作品
『トランプ占いの女』には、
その熱狂と戸惑いが色濃く刻まれています。
恥ずかしながら、私は若い頃、
この作品をうまく理解できませんでした。
私たちがよく知る「上品なFoujitaの絵」とは、
あまりにもかけ離れているからです。
しかし年齢を重ねて見返したとき、
衣服の揺らぎや連続する線の振動の中に、
単なる西洋の真似事を超えた、
どこか仏教の経文や曼荼羅にも通じるような、
東洋特有の“揺らぐリズム”が、
すでに通底していることに気づき、深く息を呑みました。
当時の藤田は、
自らのルーツを意識する余裕などないほど、
西洋前衛の流行へ必死に食らいついていたはずです。
しかし、
どれほど異国の最先端を模倣しようとも、
彼の身体に染み込んだ「東洋の感覚」は、
画面の端々から無意識に滲み出てしまっていたのです。
画材だけでなく、
その作風までもが激しく変転し、
何を信じれば良いのかもわからぬまま、
手探りで描き続けていた数年間。
この「何者でもない時期」に
貪欲に繰り返し続けた模倣と実験こそが、
彼の表現の引き出しを爆発的に増やして行きます。
そしてこの混迷の闇のなか、
藤田はモンパルナスのカフェで、
同じように「独自の美」を求めてもがく、
生涯のライバルたちと運命的な邂逅を果たすことになります。
――モディリアーニ、そしてスーティン。
彼らとの出会いが、
藤田の“線”をさらに独自の方向へと変えて行くことになります。
モディリアーニとの交流―戦時下に研ぎ澄まされた極細の描線

この頃の藤田は、
蜂の巣のようにアトリエが並ぶ長屋
「シテ・ファルギエール」に部屋を借り、定住し始めました。
薄い壁一枚を挟んだ隣人には、
モディリアーニやスーティンといった、
のちにエコール・ド・パリを代表する若き異邦人たちがいました。
金のない彼らは、
同じ屋根の下で凍えながら、
互いのアトリエを行き来する文字通りの共同生活を送っていたのです。
なかでも私が強く惹かれるのは、
夭折の天才、アメデオ・モディリアーニと藤田との交流です。
異様に細長く引き伸ばされた首。
瞳のない、静かな憂鬱。
画面全体を支配する、張り詰めた孤独な人物像。
この時期の藤田の作品
(例えば、当時のアトリエの空気をそのまま写し取った『シテ・ファルギエールのスーティンのアトリエ』など)
を見つめると、
モディリアーニから伝播した、
あの“細く、沈んだ空気”が痛いほど漂っていることに気づきます。
私はここに、
ただ上品なだけではない、
後年の乳白色の裸婦へと繋がっていく
「宿命的な静寂」の原型を見ています。
後世の私たちは、この時代を
「華やかな芸術都市パリ」の神話として語りがちです。
しかしその実態は、
第一次世界大戦の砲撃の音が遠くに響く、
不穏で冷酷な戦時下の街であったのです。
若き芸術家たちは皆、
明日の保障もない貧困と、
異邦人としての底知れぬ不安に震えていたのです。
だからこそ、彼らは夜になると、
モンパルナスのカフェ「ラ・ロトンド」へ
まるで互いの生存を確かめ合うように集まっていったのです。
死の恐怖と孤独を紛らわせるために、
すきっ腹に強い酒を流し込み、
怒鳴り合い、夜通し狂騒に身を任せました。
その刹那的な夜の喧騒と、
凍えるアトリエの静寂という凄絶な落差のなかで、
藤田の「線」は決定的な変化を遂げていきました。
高価な油絵の具を諦めた藤田は、
この頃、安価な紙に水彩を薄く滲ませ、
日本の面相筆やインクのペンを使って、
極細の描線をひたすら重ねる技法に没頭していました。
それは、
西洋の肉厚なマチエール(絵の具の層)とは対極にある、
骨と皮だけのように削ぎ落とされた、
しかし決して折れない強靭な線でした。
パリの底辺の寒さのなかで、
ただ生き延びるために研ぎ澄まされていった藤田の線。
パリの底辺で育ったその細い線は、
やがて世界の頂点に立つピカソも立ち止まらせる、
誰にも真似できない藤田だけの表現へと育っていくのです。
1917年、ピカソが動けなかった日 ―共鳴しだす二人の天才

そして1917年、運命の瞬間が訪れます。
藤田嗣治はパリのシェロン画廊において、
自身初となる個展を開催しました。
小さな画廊の壁という壁に、
上下左右の隙間なくぎっしりと敷き詰められた、
110点にも及ぶ水彩画と素描の数々。
そこに並んでいたのは、
かつて日本から携えてきたあの退屈な
「美術学校的洋画」の影など微塵もない、
全く新しい芸術でした。
息をのむほどに美しい、極細のインクの線。
どこか厳かで、知的な静けさを湛えた余白。
それは、
西洋のアカデミズムが
未だかつて目撃したことのない、
東洋の感覚が宿る「異質な線」でした。
その噂を聞きつけ、
あのパブロ・ピカソがふらりと画廊に姿を現します。
藤田の作品の前に立ったピカソは、
そこから3時間近く
作品の前に立ち続けたとも伝えられています。
4年前のあの日を思い出してください。
パリの初日にピカソのアトリエを訪れ、
自らの芸術観を木っ端微塵に破壊され、
涙を飲んだのは藤田の側でした。
ピカソという圧倒的な太陽の前に、
己の無力さを思い知らされた無名の青年。
その青年がわずか4年の歳月を経て、
今度はピカソの側を沈黙させ、
その足を完全に止めてみせたのです。
これは単なるシンデレラストーリーではありません。
私はここに、
「一度完全に敗北し、死んだ者だけが辿り着ける、壮絶な変貌」の凄みを感じます。

個展は大成功を収め、
作品は初日でほぼ完売しました。
しかし、藤田の格闘はここからさらに深化して行きます。
水彩での成功に満足せず、
「西洋美術の真の主戦場である『油彩画』で、
この線を再現しなければ意味がない」と、
彼はさらなる技術的試行錯誤へと身を投じます。
油絵の具の粘り気に抗い、
日本画の面相筆の滑らかさを
キャンバス上に定着させるための、孤独な研究。
この個展から数年後、
彼はついに、
世界中の画家たちを驚愕させる伝説の技法
「乳白色の肌」
へと辿り着くことになるのです。
興味深いことに、
この頃のピカソもまた、
キュビスム一辺倒ではない
新たな表現を模索し始めていました。
もちろん藤田の影響だけで説明できるものではありません。
しかし、私は、
この2人の表現の変化に、
不思議な共鳴を感じずにはいられません。
無名の東洋人が放った一筋の「線」は、
確かにパリを驚かせました。
しかし、藤田が本当に世界を熱狂させるのは、
まだ少し先の話です。
彼はこの成功の後、
誰も見たことのない「白」を生み出そうとしていました。
【 第一部 完 】
14歳でパリ万博へ絵を送り、
15歳で「Foujita」と名乗った少年。
神田の夜学でフランス語を学び、
丸善で未来の芸術に触れ、
東京美術学校へ反旗を翻し、
世界の中心パリへ渡った。
そして1917年。
かつて自らを打ち砕いたピカソを、
今度は自分の絵の前に立ち止まらせた。
少年が夢見た「Foujita」は、
この日、初めて現実のものとなったのです。
【 次回予告 】|「乳白色の肌」はどのように生まれたのか
しかし藤田の変貌は、
まだ終わりではありません。
ユキとの出会い。
乳白色の裸婦。
パリの王様と呼ばれた黄金時代。
そして、
さらに変化していくサイン。
なぜ藤田は、
人生の節目ごとに名前を書き換えたのでしょうか。
次回は、
世界を熱狂させた「乳白色の時代」を追いながら、
Foujitaという人格が完成していく過程を見ていきます。
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